聖書のみことば
2023年11月
  11月5日 11月12日 11月19日 11月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月1日主日礼拝音声

 恵みの支配
2023年11月第1主日礼拝 11月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第1章26〜38節

<26節>六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 <27節>ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。<28節>天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」<29節>マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。<30節>すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。<31節>あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。<32節>その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。<33節>彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」<34節>マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」<35節>天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。<36節>あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。<37節>神にできないことは何一つない。」<38節>マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 ただ今、ルカによる福音書1章26節から38節までを、ご一緒にお聞きしました。26節に「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」とあります。「六か月目に」と始まりますが、これは直前の24節に述べられていた祭司ザカリアの妻のエリサベトが「身ごもって、五ヶ月の間身を隠していた」ことに関連しています。妊娠初期の、まだお腹がそんなに大きくなっていない時には、ゆったりした服を着れば身ごもっていることを他の人たちに気づかれずにやり過ごせますが、いよいよお腹が大きくなってきますと、そうはゆきません。「六か月目」というのは、胎児のいることが誰の目にも明らかに分かるようになった頃、という意味だと思われます。神はそのような時期に天使ガブリエルをマリアのもとにお遣わしになりました。
 ここには神の深い御計画が目に見える形で表れています。神はマリアのために、マリアが神の御業を信じることができるようになるために、エリサベトの妊娠6ヶ月の時に、天使をマリアのもとに送られたのでした。

 マリアについては、カトリック教会とプロテスタントの教会では、全く違う風に受け止められています。カトリック教会ではマリアはその信心深さのゆえにキリストの母となったのだと考えられ、全ての聖人の頂点に立つ人と受け取られています。多くのカトリック教会ではマリアの彫像や絵画が飾られ、敬愛の念を集めています。これに対してプロテスタントの教会では、マリアは特別に聖なる者であるとは考えません。マリアも私たちと同じ神の恵みを受け、御業に仕える一人として用いられた女性です。それ以上ではありません。マリアには、主イエスをこの地上に送り出す人間の母親という務めが与えられました。しかしそれは、マリアが特に信心深かったからでも敬虔だったからでもありません。神の御業に用いられたことで、マリアには特別な光が当てられていますが、それはそういう立場に立たされたということであって、仮にこのマリアを神の御業という全体の中から取り出して、マリアだけをしみじみ眺めるならば、マリアは他の多くの人たちと何も変わるところのない一人の人に過ぎないということになるでしょう。マリアを輝やかせているのは、マリア自身の信仰や信心深さではなくて、神の御業なのです。
 そして、神が御業をなさるのはマリア一人についてだけではなく、ここにいる私たち一人ひとりの上にも御業を行っておられ、私たちを御業に仕え、御計画の中に生きる者として招いておられるのです。

 神がマリアに働きかけて下さったその最初が、「天使ガブリエルをお遣わしになる」ということでした。神の御業を人間の側から始めることはできません。神の御業はいつも、神の側からの働きかけによって始まります。神がガブリエルをマリアのもとに送ったところからマリアの特別な務めが始まるのですが、それがエリサベトの妊娠6ヶ月目であったというところに神の深い御心が現れているのです。
 6ヶ月目に天使が送られたということは、エリサベトが妊娠して6ヶ月目に急に神が天使を送ろうと思い立ったということではありません。神の御業は思いつきや偶然ではありません。人間の側にそれが突然のことであり、いかにも急なことのように感じられるとしても、神の側では深い御心のうちに御計画が既に立てられていて、時が来ると実現されていきます。6ヶ月前、エリサベトの胎内にヨハネが宿った時には、天使ガブリエルがマリアのもとに送られることが、天においては決まっていました。
 しかし、どうして神はそこに6ヶ月の時間を置かれたのでしょうか。なぜエリサベトの妊娠に続いてすぐ、同じようにマリアを身ごもらせなかったのでしょうか。それはまさに、信じることのできなかったマリアが信じる者とされるために、エリサベトに神のしるしとしての役割が与えられたからなのです。マリアが神の御業を信じることができるようになるために、神は先にエリサベトの胎内にヨハネを宿らせたのでした。

 今日の記事を聞いていて、マリアが天使ガブリエルの訪問を受けたとき、マリアは最初から耳にした話を信じ、喜んでいるでしょうか。そうではありません。マリアは天使ガブリエルの言葉を聞かされた時、その言葉に驚き怪しんで考え込んでしまっています。28節29節に「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。天使の告げる言葉は神の言葉なのですが、ここには神の言葉を聞いた時、すぐに喜んで信じようとしたのではなくて、不思議に思い不安を感じ、物思いに耽るマリアの姿が見られます。神の御言葉だからといって、常に全ての人に喜んで受け取られるとは限りません。むしろ、警戒されて不審の念を持たれ、なかなか素直に受け取ってもらえないこともあり得ます。ここでのマリアの姿のように、です。
 ここではまだ、マリアの中に救い主となる胎児が宿っているという決定的なことは知らされていません。言わばその前段階で、天使ガブリエルを通して神がマリアに語りかけておられる、そのことにマリアが気づけるようにという言葉がけがされています。

 しかし勿論、この前段階の言葉がけは、これだけで目的が達成される訳ではありません。マリアには、この前段階の言葉がけの後に、それに続いて、本来マリアに伝えようと神が計画しておられる事柄が語りかけられます。30節から32節に「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない』」とあります。
 マリアは、この言葉についても、感謝し喜んでこれを聞くという風にはなれません。マリアは天使の言葉を聞いているうちに息が詰まりそうになります。そして低く、うめくように返事をするのが精一杯です。34節に「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』」とあります。このやり取りの中で、マリアは決して、信心深く敬虔で神の御言葉ならば当然それは実現するのだと、すぐに受け止めているわけではありません。自分自身の人間的な理性を犠牲にして、すべてを信じ受け容れるような素振りは見せません。天使の来訪に際しては驚いて考え込み、救い主となる男の子の受胎を聞かされると、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、至極全うな疑問を口にします。ここでのマリアは、特別に信心深く清らかで、御言葉を全て受け容れるという風ではありません。
 確かにマリアは、今日の箇所の最後では、口ごもりながらも天使ガブリエルから聞かされたことについて、38節のように答えています。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った」。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」という言葉が、神のなさりように対して類稀なる服従の言葉と受け取られ、マリアはまことに謙遜で信心深く、遂にはその信仰の深さによって神の独り子の地上における母となったのだとさえ、カトリック教会では言われるようになっています。

 しかしこの記事は、本当にそのようなことを伝えているのでしょうか。マリアは、38節のこの言葉を語った時も、どこか慎み深く、もっとあり体に言えば、ためらいがちに語っているように聞こえないでしょうか。少なくともマリアは、「信じます」という言葉は口にしていません。マリアが語っているのは、自分は「主のはしためである」ということです。即ち、自分は主なる神の僕、下女に過ぎない者であると言っています。僕や下女であれば、主人の命令には逆らうことはできません。従って、「神である主の仰せの通りになるでしょう」と言っているのです。自分から感謝し、喜び、「御言葉を信じます。御業にお仕えします」と言っているのではありません。「神さまがそうなさると本当におっしゃっておられるのなら、きっとそうなるでしょう」と言っているだけです。

 けれどもマリアは、大変消極的にではありますけれども、主の御業に自分が用いられることに同意していると言えると思います。「自分自身をはしためとしてお用いください」と語ったマリアの言葉は、今日の箇所の前半部分でのマリアの言葉とは随分趣きが違っています。はっきり言うなら、今日の箇所の始まりではとても信じることができなかったマリアが、半信半疑ではありながらも、「もしも神さまが本当に自分を用いようとお考えであるのならば、自分ははしために過ぎないので、どうぞお用い下さい」と答えるまでに、信仰を励まされているのです。
 この変化は、単純にマリアの信仰が励まされたというようなものではありません。神の御業だと言われても男性を知らない自分に子供が生まれる筈はないと思っていたマリアが、もしかすると自分が用いられ子が与えられるかも知れないと、かすかにでも思うようになった、そういう変化です。弱い信仰が強められたのではなく、質的に内容が違っているのです。言ってみれば34節のところで語っていたマリアと38節のところで語るマリアの間には、断絶があるのです。信仰への飛躍と言っても良いかもしれません。とにかく29節や34節で黙ったり語ったりしているマリアと、38節で語っているマリアは、明らかに地続きではないのです。34節のマリアからは決して出てこないような言葉を、38節のマリアは語ります。この2つのマリアの姿の間には一体何が起こっているのでしょうか。35節から37節に「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない』」とあります。
 この箇所は、34節でマリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか」と語った言葉に対して、天使ガブリエルが聞かせている言葉です。一体この箇所のどの言葉がマリアを動かし、変えたのでしょうか。

 まず37節に大変力強い言葉があります。「神にできないことは何一つない」という言葉です。確かにこの言葉は真理です。神というお方は、御自身がなさろうと思えば、どんなこともおできになります。しかし、この言葉は魔法の呪文ではありません。このように語りかけられてその通りだと思う人は、既に信仰を与えられている人です。信仰がある人は、この37節の言葉に勇気づけられ、慰められます。しかし、今、マリアが置かれている状況で、マリアが「本当にそうだ。自分には子供が生まれてくる」と思えるかというと、どうでしょうか。マリアは自分に子供が生まれてくる筈はないと思っています。そのマリアの思いを翻させる程に、37節の言葉が強く響くかというと、そうはならないかも知れません。
 では、35節の言葉はどうでしょうか。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。この35節の言葉も本当のことを述べています。天使はここで、一つも嘘をついてはいません。なぜ男性を知らないマリアが身ごもり赤ん坊を産むことになるのかについて、天使が説明しています。聖霊がマリアに降り、いと高き方、即ち神の力がマリアを包み働くので、マリアは身ごもると説明されます。
 このような説明は、地上の生活経験や人間の理性に添って考えるならば、それに逆らうような説明です。人間の理性以外を決して認めようとしない世俗主義者たちには、この説明は受け容れてもらえないことでしょう。けれども、「主イエスのお誕生」については、これ以外には説明することができないことも、また事実です。
 この世の物見高い人たちは、マリアが男の人を知らないと述べているその証言に疑いを差し挟みます。もしかするとマリアが偽りを言っているのではなか。イエスの人間の父はどこかにいるのではないかという憶測が、2000年前から常になされています。しかしそれは、あくまでも憶測の域を出ないことです。
 そして何よりも、ここで天使と語っているのはマリア自身です。本人が自分のこととして「わたしは男の人を知らない」と言っているのです。それに対して天使は、「この男の子の誕生は地上の人間に由来するのではなく、天に由来し、神の御力によることなのだ」と説明しています。マリアはこの説明を聞いて、「なるほど」と思い、考えを変えたでしょうか。そもそも天使は、「おめでとう、恵まれた方」と、今回の受胎の出来事が神からマリアが特別に恵みを頂いた出来事なのだと伝えています。しかしマリアはそう聞かされても、自分の中に胎児が宿ったことを受け止めきれずにいるのですから、この「聖霊による受胎」という説明も、事柄としては本当のことですが、マリアの気持ちを動かす程の影響を与えるには至らなかったでしょう。

 ここでマリアが最も衝撃を受け、心を動かされたのは、36節の言葉ではないでしょうか。即ち、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」、この知らせに、マリアは強く興味を惹かれ、また心が動いたのではないでしょうか。神の働きについて、どんなに強い言葉で断言されても、また神の働きについて理屈を説明されても、それがどこか遠くで語られている自分と関わりのない言葉だと思えば、人はほとんど影響を受けません。けれども、身近なところで、それこそ自分のよく知っている親類や友人の身の上に起こっている実際の出来事であると知るならば、私たちは少なからず心が動くのではないでしょうか。ごく身近な人の身の上に起こることであれば、自分の身にも起こるかもしれないと思うようなことがあるのではないでしょうか。
 勿論、いくら身近な人の身に実際に起こったことだからと言って、自分の身にも起こると簡単には思えないでしょう。けれども、本当に身近なところに起こることであれば、もしかすると自分の身にも起こり得るのではないかという位には考えるのではないでしょうか。その証拠にマリアは、これは来週開く予定の箇所ですが、直ちにエリサベトのもとに駆けて行くのです。天使の話してくれたことが本当のことかどうかを確かめるためです。

 マリアはただ天使の言葉を聞いただけでは、神が実際に力を及ぼし、御業を行っておられることを信じられませんでした。しかし、神がこの世界に力を及ぼし御業をなさることについては、マリアだけが信じないのではなく、普通、私たち人間は信じることができないのです。ところが、その信じることができない人間を、神は御自身の御業にそのまま用いようとなさいます。神の働きを信じない人を御業に用いるために、信じる人に変えようとなさいます。ここでマリアは、そういう神の働きかけを受けているのです。
  これはマリアにだけ起こっていることではありません。私たち自身も、自分を思い返せば分かるのではないでしょうか。私たちは元々、生まれた時に、神を信じ主イエスを信じる者だったでしょうか。いいえ、違います。私たちは神のことも主イエスのことも知らずに生まれました。ところが、元々は神を知らず、信じる筈のない者たちだった私たちが、どういうわけか人生のどこかで主イエスに出会い、信じるように変えられたのです。それは、誰かが私たちに信じるよう強く言い立てて強制したからでしょうか。理屈を色々述べ立てて、私たちが説得されたからでしょうか。そうではないのです。私たちもまた、「神が生きて働き、人間が神の力を受けて慰められたり勇気を与えられたりして、変えられ、生きていけるのだ」ということを、自分の生活経験の中から信じるようにされたのではないでしょうか。
 ここで、マリアはそういう経験をしています。親類のエリサベトが神の御業に用いられて、子供を産めるはずがないのに子を宿していると聞かされて、マリアは大変不思議だと思いながらも、エリサベトのいる山里まで駆けて行く、そういう者へと変えられていきます。私たちもまた、それに近いことを経験させられて、一人ひとりキリスト者にされているのです。
そういう意味で、マリアは私たちと全く同じ、私たちの間に生きている信仰者の一人です。

 今日の箇所は、マリアの信仰深さを褒め讃える箇所ではありません。マリアが信じられない筈の人であったのに信じることができるようになるために、神がどのように働かれたかを伝える箇所なのです。即ち、神がエリサベトに先に御業をなさり、そしてマリアはそれを知り、確かめて、信じることができるようにされている、そういうことが起こっている箇所です。
 そしてそれは、私たち自身がそれぞれの人生の中で経験させられていることでもあるのです。自分が特別に信心深かったり宗教的だから、神を信じる者、キリスト者になっているのではありません。私たちは皆、元々の自分を考えるならば、なぜ信じるようにされたのか、不思議だと言わざるを得ないのです。
 私たちは皆、マリアと同じ、神の働きのもとに捕らえられ、神の働きに仕えるようにと、ここに生かされていることを覚えたいのです。お祈りを捧げましょう。

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